サボテンだった。
「用事があるから来てくれないか」そう一成に言われて柳堂寺まで自転車を走らせ、そこで待っていたのは鉢に植えられた青々としたサボテンだった。
それを見たときには友人の意図が全くといっていいほど読めず、「なにこれ」と胡散臭げに聞いてしまった。
「見ればわかるだろう、サボテンだ」
そりゃ俺にだって人並みに二つの目が付いてるんだからそれくらいはわかるさ、これを俺に見せてどうしたいのかが聞きたい。
「実はな、これはそんじゃそこらのサボテンじゃない」
日本にはそんじゃそこらにサボテンはない
「話の腰を折るな。いいか、このサボテンはだな月下美人という名の品種なのだ」
それはそれは大層な名前だな。
「うむ、元々中東の方の植物なのだが、父が知人から頂戴したと言ってな、それでここにこうしてあるわけだ」
だから俺の質問に答えてくれ。その大層な植物をなんで俺に見せるんだ。
「ひとつ、育ててみないか?」
はあ?
「いやこのサボテンはな、それはそれは美しい白い花を咲かせるらしいんだが、咲かせるまでが大変らしい。鉢はもうひとつあってな、そちらは僕が育てようと思っているから、この鉢を預かって育ててみてくれんか?」
みてくれんか?って言ってもな、俺は園芸なんかしたことないぞ。
「かまわん。お前ならきっと花を咲かせるだろう」
なんの根拠があってそんなこと言ってんだよ、こっちの都合はお構いなしか?
「きっとまめなお前なら大丈夫だ。では頼んだぞ衛宮」
ってちょっとおい……さては一成お前、自分が不器用なもんだから保険として俺に育てさせて咲いた頃に見に来る気だろ。
「……………………さて石畳の掃除でも」
図星か。
「というわけでサボテンだ」
「はあ、サボテンですか」
「紛うことなくサボテンですね」
俺と桜とライダーは居間のテーブルの上に置かれたサボテンの鉢を前にして、その存在を認め合った。
「半ば押し付けられたようなところはあるけど、せっかくだから育ててみようと思う。どうかな?」
まさかとは思うが桜がサボテンアレルギーだったり、ライダーが緑色でトゲトゲしたものを見ると性格が一変するなんていう裏事情があったら困るので伺いを立てる。
「いいんじゃないでしょうか?綺麗な花が咲くんですよね、私も見てみたいです」
「同感です。家の中に植物があると落ち着いていいと思います」
あっさりと同意する二人。
「結構気長に待たないといけないみたいだぞ、早くて……三年とか言ってたな」
「えー」
桜が不満そうな声を上げる。隣にいるライダーも心なしか不機嫌そう。
「鉢替えとかもしなきゃいけないみたいだしな、ま、水やりとかはそんなに気を張らなくてもいいって聞いたから、地道にやってくさ」
口ではそんな風に言いながらも、内心少し楽しみではあった。
帰りに寄った本屋で見た開花時の写真、確かにあれは綺麗だった。
実物を見てみたい、という気持ちがある。植物なんて育てたことは無いに等しいけれど、挑戦する課題としてはなかなかに手応えを感じさせてくれそうな予感がする。
サボテンは静かに、テーブルの上でどこかを見つめているようにも見える。
たまには、生き物も悪くない。
蜩の声がする。
夕暮れによって染め上げられた帰路は視界の中でゆらゆらと揺れ、茜の地肌を輝かせている。
両手に下げた買い物袋の重みに充足感を覚え、自分の存在がここに確かにあるのだと知らせてくれる。
きっと私は今、幸福だ。
束ねた髪をくすぐる晩夏の風も、目を細めさせる橙色の空も、踏みしめる確かな大地も、なにもかもが愛おしくかけがえのないものだと分かる。
ただ
欠けたものがここにあるとするならば、それはおそらく、私の心の中。
闇で育まれた私の心には、これほどの翳りのない幸福は明るすぎた。
そう思う私の心だけが、いつもどこかで喜びを嗜めている。
いつだってどこかで疑ってしまっている。
こんなに幸せなことばかりが続くはずはないと、そのうちに裏切られてしまうのではないかと、ひねくれた予測ばかり考え、その度に自責の念にかられる。
幸福であるならばそれに越したことなどないのに。
今このときが幸福であるならばただそれを享受すればいいだけなのに。
それこそが正しい幸福の形だというのに、幸福をも恐れて、一体私はなにに喜びを抱けばよいというのだろう。
考えたところで解らない。
幸福の受け止め方なんて馬鹿げたことを考える者は、ここにいる私ひとりぐらいのものだろう。
「戻りました」
少し荒っぽくがらりと戸を開けた。
「おかえりなさいライダー」
奥から響いてきた声は、晴れ晴れとした澄んだ音。
この声を聞いたときには、なにもかも忘れて幸福を実感出来るのだけど。
ぴしゃっと後ろ手に閉めた戸の音は幾分弱弱しかった。
無論、桜にこんなことは言わない。いままでも、そしてこれからも。
士郎は毎日欠かさずに日課をこなす。
それはもう機械のような正確さと実直さによって。
朝早いうちに土蔵に入り魔術の鍛錬。夕方には道場で竹刀を振るい、日没の頃にはサボテンに水をやる。
サボテンの水やりくらい私がやりますと言うと、
「いや、あんまり水をやりすぎるのも良くないみたいなんだよ。それに結構楽しいんだこれが」
などと年寄りくさいことを言う。この感想は士郎よりも桜が怒ると思われるので口にはしない。
そしてそんな士郎の情熱を一手に受けるサボテンはといえば、無愛想なくらいになにも変化がない。いや大きくはなっているのだろうが、花を付ける段階にはあまりにも程遠い。蕾が顔を見せる兆候すらない。
こんなことではやりがいなどとても感じられないのではと聞けば、
「いや、大きくなってるってことは成長してるってことだし、それに子供を育ててるみたいで悪くないよ」
益々年寄りじみたことを言う始末。実子だってまだのくせに、とこれも桜が動揺するかもしれないので心の中で思うだけにしておく。
だがそろそろこれだけは言っておいてやらねばと思う。
でなければあまりにも桜が不憫というものではないか。
「士郎」
私はその背中に声をかけた。
「なに?」
振り向いたぼんやり顔に一層怒りがこみ上げてくる。
「士郎、あなたはサボテンと桜とどっちが大事なのですか?」
「……はぁ?」
「近頃のあなたときたら特に水をやるわけでもないのに暇を見つけては鉢の前に居座ってひとりで笑みなど浮かべてみたりして、傍から見るとそれがどれだけ不気味か理解しているのですか?」
「……はぁ」
「大体植物なんぞにかまけている暇があるなら桜と外に出かけるとか、桜に労わりの言葉をかけてやるとか、桜になにか贈り物をするとか、桜との愛の結晶を作成するとかいろいろすることはあるでしょう?」
「いや、結構どれもやってる気が」
「足りません、全然まったくこれっぽっちも足りません。いいですか?私の目の黒い内は桜をないがしろにする者はたとえ誰であろうと生きながらにして地獄を味わわせてあげますからね」
「……ライダーの目、黒くないじゃん」
「……ほう、まさかこんなに早く一人目がでるなんて」
右手をすちゃと眼鏡のフレームに添える。
「ああああああごめん失言忘れて」
「次は冗談では済みませんからね、大体過剰な世話はサボテンに取っても迷惑です」
「……解ったよ」
「返事ははいです」
「‥はい」
「よろしい」
「……小姑」
「……私がその単語の意味を理解できないとでも?」
すちゃ
「あああああああああごめん忘れて魔が差した」
解っている。
士郎だってなにも桜をないがしろにしているわけではないのだと解ってはいる。
桜がサボテンの花が咲くのを楽しみにしているのだって知っている。
しかし士郎という人間は加減というものを知らない。
ひとつのことにかまけると他のことがおざなりになる傾向にある。
それと理想というものを美化しすぎるきらいもある。
このままいくといざサボテンの花が咲いた時に失望してしまうのではないか。士郎の中の空想の花が七色に輝き出したりしないうちに早いところ現実に咲いて欲しいものである。
トゥルルルルルルルルルル…………
と、電話が鳴っている。
「ライダー、出てくれなーい?」
「はい」
台所で桜が叫んだ頃には受話器に手をかけていた。
「もしもし衛宮ですが」
これを言う度に妙に違和感を覚える自分がいる。
衛宮ライダー、締まらない名前だ。
「もしもしライダー? 私、凛だけど」
倫敦にいる桜の姉からだった。
「ああ凛、どうしました?」
「うん実はさ、纏まった休みが入るからそっちに行こうかなーって」
「それは桜も喜びます。それでいつごろ?」
「んー、明後日かな。明日の夜出発」
「解りました。桜と代わりますか?」
「ううんいいわよ。今そっち夕飯時でしょ?帰ってからゆっくり話すわ」
「はい、それでは」
「うん、じゃあね」
電話を切ると桜がエプロンの前で手を拭きながら小走りに駆けてきた。
「姉さんから? なんだって?」
「明後日こちらに帰ってくるそうです」
そう告げると、見る間に桜の顔に喜びが広がった。
「わあすごい、じゃあご馳走なんにしようかな・・・そうだ、ライダー明日デパートにワイン買いに行こうか?」
「いいですね、苦学生の凛はきっと酒など飲んでいないでしょうし」
「決まり!それじゃ先輩にも伝えてこないと」
言うが早いか、廊下を走り出す桜。
「あ、転びますよ」
「平気―」
お玉を片手に子供のようにはしゃぐ桜。
それを通路の角まで見送ってから踵を返す。
ああいうところはまだまだ子供
ドサッ
「!?」
不吉な音が聞こえた。
反射的に桜の行った方へ足を走らせる。
「桜!?」
そこには
床に倒れ伏し、呼吸を荒げる桜の姿があった。
ひゅうひゅうと、なにか不出来な楽器のような息の音が、嘘みたいにはっきり聞こえてくる。
「桜!!」
うつ伏せになっている桜を抱き上げ、腕で背中を支える。
「大丈夫ですか、桜!」
返答はびゅうという耳障りな一呼吸だけだった。
まさか、こんなに早く唐突に幸福に亀裂が走ろうとは夢にも思っていなかった。
なぜ、桜が!
あれだけの重苦を受けて続けてきたこの少女を、まだ飽き足らず苛もうというのか。
神よ、私はあなたの全てを今呪う。
「どうした、ライダー。なんか物音が‥桜!どうした!?」
うろたえる士郎に憎悪のような視線を向けて、私は吼えた。
「士郎、医者!!」
「はぁ!?桜が倒れたってどういうことよ!」
電話で桜のことを凛に告げると、受話器から唾が飛び出さんばかりの勢いで聞き返された。
「落ち着いてください、凛」
「これが落ち着いていられるかってのよ!詳しい事情を説明しなさい!」
私は桜が廊下で突然倒れたこと、ほんの少し前までは健康だったこと、今は布団に横になって熱が相当あるということを凛に伝えた。
「前触れもなく具合が悪くなったっていうの?そんな馬鹿な話ある?」
凛の声には苛立ちが隠れようもなく含まれている。
「ですが実際に桜はそうなっているのです。医者に見せてもまったく病状が分からないということで」
「ヤブ医者、呪い殺してやりたい」
「医者に当たっても仕方ありません、それで今士郎が教会の方に行ってくれています」
教会。その意味するところそれはつまり――――――――
「……魔力の方の異常だっていうの?」
凛は若干声のトーンを下げて聞いてきた。
「その可能性もある、というだけです。そうでないにしろ教会には西洋医学の知識もありますから、現状ではそれしかないかと」
「そうね……確かに今はそれが最善だわ…………わかった、明日朝一の便でそっちに向かう」
「大丈夫なのですか?無理はしなくとも」
「こういうときに無理しないでいつするっていうのよ、妹が大変なときだってのに石っころとにらめっこなんかしてらんないわ」
私は口を開こうとして、やめた。
「あなたが今きたところでどうにかなる問題ではありません」という喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
その言葉が酷だからというんじゃない、そんなことは凛にだって分かっていると思ったからだ。
人間というのは打算だけで生きられる生き物ではないのだ。こうしなければならないという思いはなにものよりも強いのだ。
姉は、いつだって妹を守ろうとする。
そのためならば、なんだって出来てしまうのだ、きっと。
「わかりました、士郎にそう伝えておきます」
「お願い」
それだけ言葉を交わして、受話器を置いた。