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カラン、音を立ててボールペンが床に落ちた。落とした本人はそれに気付かない。
私はそれを拾う。
板書された字列を書き写すことに専念している彼女。
拾ったペンの腹でその肩を軽く叩く。気付いて振り向く彼女に。
「ボールペン落としたわよ遠野さん」
「あら、ありがとう四条さん」
いいえ、と首を横に振って私は笑んだ。
優しげに、笑えたと思う。
〜彼女達の夜・四条つかさ(変貌)
学園に復帰してから明日で二週間が経ったことになる。
学業にも生活にもさほどブランクは感じなかった。こういうのは気持ちの問題なのかもしれない。
私が不在の間、学級委員の役は仮に別の人がやっていてくれたということで、復学した私にすんなりとお鉢が戻ってきた。今となってはそれほど未練があるわけではないのだが、まあ大したことでもないので謹んで再任させてもらった。
そう、あれだけ半ば妄信的にすがりついていた「人の上に立つ」ということは、今の私にとって大きな意味を持っていない。どうしてあんなに意固地になっていたのだろうとさえ思う。
考え方ががらりと変わったせいか、周囲は皆口を揃えて「四条さん変わったね」と言う。
どんなところが、と彼女たちに訊うと、性格とか雰囲気とかそういった曖昧な返答で、ある人に至っては「自己に捕らわれているところが無くなったように思えます」
もっともだと思った。
自分は確かに、捕らわれていたのだろう。多分「理想」とかいうものに。
「理想」と「現実」の四条つかさがかけ離れていたと自分で知っていたから、だからせめて周りからは「理想の四条つかさ」として見られていたいと。
それはひどく脆すぎる仮面だった。
仮面はあっさりと剥ぎ取られた。一人のクラスメートによって。
彼女からしてみればきっと、私が被った薄っぺらい偽りの仮面の下など筒抜けだっただろう。今にしてそんな過去の自分を情けなくも鬱陶しくも思う。
あんなに愚かなことをして。
結果としてたった二ヶ月の怪我で済んだのは僥倖だったのだろう。
本当なら罰はもっと重いものであったのかもしれなかった。
神がいるなら感謝しよう。
こんなちっぽけな私に慈悲を下さったことを。
だけでなく、あの人と巡り合わせてくれたことを。
四条つかさは変わった。他者から見ればそうなのだろう。
けれど、私は皆が言うほど変わってなどいないのだ。
ただ、彼女との約束を守ろうとしているだけ。
まだ、私はちっぽけなままだ。
「なあ、戻ってきてからの四条、変わったと思わないか」
入浴を済ませて私が髪を梳いていると蒼香がそう切り出してきた。
「あなたまでそんなこと言うの蒼香。彼女は元々凡人じゃないわよ」
「へえ、やけにあいつの肩持つな遠野。お前さんを油断させるための策かもしれないぞ」
「それは無いわよ、彼女そんなに器用じゃないもの」
「………」
蒼香が香具師を見るような目で私を見ている。
「じゃあ聞くけど、彼女のどこがそんなに変わったと思うの」
「うーん、なんて言うかな・・・価値観?」
それはまた随分と漠然な要素を持ち出してきたものだ。
「価値観なんて人となりをいくら見たって解るものじゃないんじゃないかしら」
「そりゃそうなんだけどさ、なんか前の四条とは全体的に逆なんだよな」
「蒼香の言う前の四条つかさ像ってどんなの」
蒼香は少し逡巡してから。
「子鹿」
まさか動物に喩えてくるとは思わなかったので多少面食らった。
けれどまあ、言い得て妙ではある。
「じゃあ今は?」
私は額にかかる一房の髪を払いのけつつ、聞いた。
「牡鹿」
なるほど、それは解りやすくて良い。
「ようするに成長したってことでしょ」
そう話題を切り上げて、私は櫛を置いて立った。
「どっか行くのか?もうすぐ消灯だぞ」
「夜風に当たりに」
パジャマの上からダウンコートを羽織り、私は部屋を出た。
四条つかさが人が変わって戻ってきた、と彼女を知るものは口を揃えて言う。
私、遠野秋葉とて口にこそ出さないがその例外では無かった。
というよりも、彼女の変化に学園内で一番最初に気付いた人間は自分ではあるまいか。
彼女はムチウチで入院しており(身から出たサビなのだが)学園に復帰したのは、彼女が入院することになった"事件"があった秋はとうに過ぎ去り、晩冬へと木々が装いを改めたつい最近。
「えー、四条が今日から学園に復帰することになった。解らないことがあれば皆に聞くようにな四条」
学級委員長にもめでたく復帰した彼女にその注釈はおかしいだろうと、能率第一の担任のことを胡乱げに見て
ふと、その四条つかさと目があった。
にこり、と、その目は微笑んでいた。
「………!?」
負い目なんかは感じていないが、彼女が入院する直接の原因となった私に(つきつめればもっと根本的な要因は彼女にあるが)を視界に捉えて、陽光もかくやというほどに、にっこりと。
余裕でも愛想でもなく、慈愛に限りなく近い笑みを。
顔にこそ出さなかったが、その時私が感じたものは畏怖と呼べただろう。
たった数ヶ月でここまで変われる人間がいるのかと。確かに彼女は一般以上と思われる感性というか感受性、解りやすい言い方をすれば霊感とか言われるものをいくらか持っていたが、分類的に紛うことなく人間である。
彼女の笑みはけれど、四条つかさという容れ物に聖人の魂を注いだかのような、そんな不純の無い笑み。
あの、それこそ蒼香の言うように子鹿ようなの弱さを必死に繕おうとしていた彼女とは、違う。
四条つかさに、なにがあったというのだろう。
「遠野さん」
呼び声が背中にかかった。
「悪いわね、寒い中」
「いいわ。けどどういうつもりかしら」
ボールペンを拾ってくれたことは感謝するが、同時に手渡された紙に書かれた"消灯の頃に中庭で"の文字の意味は解らなかった。
「リベンジ?」
「まさか」
彼女はおかしそうに口許に手を当てて笑った。
風のない宵闇の月の下を、四条つかさはゆっくりと私の方に歩んでくる。
「話をしたかっただけよ」
右手を差し出すので何かと思ったら缶入りの汁粉だった。
「早く、冷めるわよ」
「どうしたのそんなもの」
「友達に抜け道を教えてもらって、自動販売機で買ってきて取っておいたの。湯煎して温めてきたから。」
自分の分らしい缶入り汁粉を左手で頬に当てて彼女は言う。
見事に変わったものだ、以前の彼女だったらそんな行為を寧ろ咎めていただろう。
「もしかして嫌い?」
顔を覗き込まれた。
「いいえ、頂くわ」
飲んだことは無かったが、せっかくだからもらっておいた。
渡された汁粉はほんのりと温かい。冬の大気に凍えた手に温もりが心地よかった。
プシュリとプルタブを開けて、彼女は缶に口をつけた。こうやって飲むのよ、と明らかな目配せをされたが嫌味には感じなかった。
それに習いプルタブを開け、一瞬躊躇したがゆっくりと缶に口をつける。
思ったよりすんなり飲める。小豆の甘さと渋みは喉にじんわりと溶け込んでいく。
「おいしいわ」
正直にそう言ったら彼女はクスクスと笑った。
「良かった。私も初めて飲んだけど悪くないものね。」
闇夜の天幕に星が瞬いている。冷たく刺す晩冬の気配。
林を前にして立つ私たちの周囲は静寂。
「座らない?」
白い息づかいに私はこくりと頷いた。
布越しに当たる芝生の感覚がこそばゆい。
「話があるんでしょう」
手中の暖かみを確かめるようにしながら"遠野秋葉"の体裁を崩さず、聞く。
「ちょっと長いのだけれど」
「それならお汁粉代だと思って聞く」
四条つかさはぽつりぽつりと、けれど夜陰によく響く声で話し始めた。
「入院してた病院でね、友達が出来たの」
入院してすぐは、正直遠野さんが憎かった。
なんで私がこんな目に遭うのかって。ああでも今は私が悪いって解ってるわ勿論。
けど私は入院したばかりのころ、どうしようもなく心が落ち着かなくてね。遠野さんだけじゃなくて世界そのものを呪って過ごしていたような気もする。でも、考えるのを避けていたけど私は自分が一番憎かったんじゃないかと思う。
私が変わったって皆言うでしょ?あ、遠野さんは興味無いかな。
まあそんな風に言われてるんだけど、私ね、別に自分では変わったつもりは無いの。
前みたいに振る舞っていると目的が果たせないからって、それだけなの。
うん、目的って言うかね。
私ね、ただ約束を守りたいだけなの。友達との。
入院してから一月半くらい経つと、もうムチウチはほとんど治ってね。でも精神的に後遺症が残ってるからって言われて、私は精神病棟に移された。
大した治療なくてほとんど寝てるだけの生活っていうのがあまりにも退屈でね、いつしか院内をぶらぶらと歩き回るようになってた。もっとも目的なんか無くて足の向く方にただ歩いていくっていう無意味なものだったんだけど。
その散策の最中で知らないうちに全然知らない病棟に行き着いてしまって、あとから聞いた話なんだけど、そこって重病患者が集められた病棟だったらしいの。末期のガンとか、そういう「医者が匙を投げた」患者の。
薄暗い感じがして、背筋がひんやりとする場所だった。全然無自覚のうちに来てしまったから情けないことに帰り道も解らなくて。
多分、その時点でまだ意識はぼやけてたと思うんだけど、私近くの病室の扉を開けてしまってた。道を聞こうとしたんだと思う。
その時何を考えていたかはよく覚えてない。
病室に入った瞬間に思考とかが吹き飛んでしまったから。
病室のベッドには一人の女の人がいて、その人は上半身だけを起こして窓から外を見てた。
凄く綺麗な髪だった。艶のある黒で、触ったら絹みたいな手触りなんだろうなって思わせる長くて癖のない髪。
私は汁粉の缶を傾けた。空になった缶を芝生に置き、話を続ける。
彼女の名前は巫条霧絵。彼女の年だとかそういうことは知らない、私は聞こうとも思わなかった。
だって彼女と話をする、それだけで十分過ぎるほど楽しかったし、そういうことを聞くと魔法みたいなその時間が解けて無くなってしまうんじゃないか、なんて思って。
あはは、子供っぽいね私。
でも本当に彼女の言葉は魔法そのものだった
私が聞いた彼女の初めての一言は。
――――あなた、なにに怯えているの。
今でもはっきり覚えてる。私の方を見向きもしないで鈴音みたいな済んだ声で彼女はそう言った。
その日から来る日も来る日も、私は霧絵の病室に足を運んだわ。彼女はあまり自分から話はしなかったけど、私の下らない話題に吃驚するくらい的確で納得する返答をしてく れて。
私は嬉しくて仕方がなかった。思えばそれまで飾らない自分を見せることを恐いと感じていた私には凄い発見だった。
学園のことも、家族のことも、クラスのことも話した。
気を悪くしないで欲しいんだけど、遠野さんのことも話したわ。
「私どうしても引け目を感じてしまう人が同じクラスにいるの」って。
霧絵はこう答えてくれた。
――――彼女と自分の理想像が近いと感じたことはない?つかさ。
考えてみた。その通りかもしれないと思った。
私はどこか、遠野さんに憧れていたのかもしれない。自分が死にものぐるいで立とうとしている場所に遠野さんはいて、それを認めたくない私の部分が反発していたのかもって。
――――人が人に反発するときは相手に自分と似た部分を見て、自分の嫌なところ、表に出さないようにしているところを見せつけられているように感じる場合が多いの。そしてその感情は多かれ少なかれ誰しもが持っている人間として当然の感情だわ。
その言葉で、私の中で黒く凝り固まっていたなにかがすうっと消えて無くなったように感じたわ。それは本当に呪文みたいだった。
二週間くらい、私は霧絵ところに通いつめて、けれどその生活を楽しいと感じている自分にとって皮肉だったのは、目に見えて明るくなっていく私に精神科医が「順調に回復している」って言うことだった。霧絵のおかげで鬱ぎ込むようなことも無くなったのに、その霧絵と会えなくなる。
医者に状態は良好だと言われることが辛かった。
丁度三週間目くらいかな、その医者に言われたの。
――――おめでとう、あと二日で退院ですよ。
全然嬉しくなかった。体なんていくらでも悪くなればいいのにとも思った。
霧絵に会えなくなるのがとてつもなく嫌だった。
私は走った。息をするのも忘れるくらい、今まで生きてきて一番必死に走った。
霧絵の病室の扉を開けて、退院しなくちゃいけない、もっと霧絵と話がしたい、出来るものならもっと長くここにいたい。泣きながら霧絵にしがみついて駄々をこねた。
そっと、霧絵の手が私の髪に触れた。
――――つかさ
あの、鈴のような声。今でもはっきり覚えてる。
――――空を飛びたいと思ったことは無い?
なんでそんなこと聞くんだろうと思った。霧絵は普段通りの真面目な口調でそう言って、私はその意味がまるで分からなかった。
濡れた視界で霧絵を見上げた。
彼女は初めて会った時と同じように外を向いていた。私はずっとそう思っていた。
けれど、それが間違いなんだってその時初めて気付いた。
霧絵の視線は外の花壇や道路や街路樹に向けられているのではなくて
空を、空だけを見ていた。
――――霧絵は、空を飛びたいの?
質問の答えにはなっていなかったけど、あの時はそう言うのが一番正しいような気がした。
――――飛行には憧れるわ。いくら浮遊しても私の見たいものは見えてこなかったから。飛ぶことが出来ればあるいは。
霧絵の瞳は一匹の蝶を見つめていた。まさにそれは羨望の眼差しだった。
――――私ね
無意識の内に、気付けば私は口を開いていた。
――――人も空を飛べると思う。
それが、霧絵の驚く顔を見た最初だった。
私はなにかに後押しされるように続けた。
――――飛行機とかそういことじゃなくて、人もいつか空を飛べるんじゃないかなって、前から思ってた。霧絵と会ってからよく夢を見るんだ、空を飛ぶ夢も見た。
自分でもなにを口走っているのかよくわからなかった。
――――人って皆が考えてるより凄い生き物だと思うんだ私。夢っていう思い通りの世界を一人一人持ってるんだよ?それってなによりも誇るべきことじゃない?人間ってそれくらい凄いんだよ、空くらい飛べるよ。私は人に不可能なんて無いと思いたいもの。
根拠の欠片も無くて、子供の空想と同じことを言ってるんだって、今でも解ってる。
けど、なんでかな。どうしてもその時は空も飛べるんだって信じたかった。
――――ありがとう。
霧絵は優しく言ってくれた。
そして
――――つかさと別れるのは私も淋しいよ。
涙が溢れそうになった。
嬉しくて、同時に悲しくて切なくて、世界はどうして霧絵みたいに優しく出来てないんだろうって、瞼が熱かった。
――――退院しても遊びにくるよ。
霧絵は私の言葉に首を振った。
やっぱりそうかって思った。
だって霧絵の体は、滲む視界でも解るくらいに半透明になってしまっていたから。
私は無理して笑った。
――――やったね霧絵、空にいけるんだね。
霧絵は微かに笑ってくれた。その透けた体が女神みたいだ、なんて感じた。
――――つかさ、一つ約束しよう。
――――うん、約束するよ。なんでも約束する。
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その言葉はか細くて、でも私の耳にはしっかり残った。
「話はそれだけ」
私は濃紺の空を仰いだ。
白霧のような吐息が霧散していくのをゆっくりと見送る。
「何故私にそのことを話してくれたの」
ゆっくりと口を開いた遠野さんの声は、幾分優しげに聞こえた。
「信じてくれるの?今の話。」
「疑うべきなのかしら」
「ううん、ありがとう」
お礼を言うのがなんだか心地良い。こんなに清々しい気分なのは、夜の冷たく澄んだ空気のせいだけじゃないと思う。
「ごめんなさい」
身勝手もいいところだ。けれど謝っておかないといけないと思った。
対等になっておかないと、約束が果たせない。
「時効よ」
返答は短く、夜の中に溶け込むように小さく
それで、彼女の優しい部分を確かに感じてしまった。
同時にその言葉は私の勇気を促してくれた。
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霧絵の最後の言葉を何度も何度も心で反芻する。
ハードルは高い方がいいと思った。
霧絵との唯一で最後の約束を守るのに、半端な守り方じゃいけないと思った。
白羽の矢はあなたに立ったの遠野さん。ううんこれからは。
「秋葉って呼んでもいい?」
「……は?」
彼女は見開いた目で私を見つめた。
間違いなく、それは遠野秋葉という仮面の下の素顔の一端。
こんな顔も出来るんだ。
思えば遠野秋葉の驚いた顔なんて初めて見た。
霧絵の最後の言葉をもう一度思い出す。
――――本当の友達を作って。
どうしようもなく心が躍って、立ち上がって叫んだ。
空の向こうに向けて
「決めた、今日から遠野さんのこと秋葉って呼ぶ!」
満天の星が、私を鼓舞するように瞬いていた十二月半ばの夜。
雪でも降らないかな、そうすればドラマみたいなのに、なんて思って微笑んだ。
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