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校舎の裏手にある桜の木は大人の男五人が手を繋いでやっと幹を一周出来るほど大きく、そして老いていた。
その根元には室があり、中は子供なら四人はすっぽり入れてしまうくらい広かった。
「ごめんね」
短く、はっきりとした拒絶の言葉は代一の耳の奥にこびりついたまま離れない。
彼女はもうこの場を去ってしまった。それなのに、代一は膝を組んだままここから一歩も動けずにいる。
室の入り口から進入してくる長い校舎の影はどろりとして冷たく、呼吸をしようとする度に肺の辺りが鈍く痛んだ。足はびくとも動こうとせず、じっと座り続けることを苦と思うのも忘れている。だらりと地に付いた手の先で、五本の指が疲れ果てたように、抜け殻となったように、木の根に力無く触れている。
泣こうと思っても声が出せない。喉からは乾いた呻きだけが細々と漏れでていく。吐きそうだけれど、喉が仕事を放棄しているためにこみ上げかけたものが胃の上の辺りで立ち往生して、異様に熱苦しい。
横目に入り込む夕焼けは眩しく激しく、薄紫の空の西を茜色に灼いていた。
唇が、微かに動いた。
声は出ずとも、今自分が何を口走ったのかは理解できた。
理解して、初めて涙が堰を切り出した。最初の一滴が地に落ちる、その後はもう止まらなかった。岩のような頑なさが跡形も無く崩れ去り、寒くもないのに震えの止まらない両足には、瞳に溢れた涙の重さを受け止める力も残されてなかった。
倒れこむ。木屑の匂いが鼻の中で転げまわり、全身に湿ったくすぐったい感触が触れる。根の間から咲いた小さくて青い花がすぐ目の前にあり、湿った吐息に微かに揺れる。
それを汚してしまうのは躊躇われた。
胃から込みあがってこようとしているものを、咽そうになりながら顔を上げて懸命に飲み下す。
室から見上げる丸い空には、いつのまにかうっすらと半透明の三日月が浮かんでいた。
月は青白く、ちっぽけで寒々しく、今にも消え入りそうなのに、嘘のように眩しかった。
いつからそこにいたのか。
この夕刻にあったことの一部始終を見ていたのだとすれば、つまらない見世物だったと欠伸を漏らしているに違いない。
開幕は唐突で、脚本は最悪、山場も無ければ救いどころも容易されちゃいない。終演もまた突然で、その後に続いているのはひとりきりの、孤独な後悔。
思えばきっと、なにもかもが間違いだった。最初の最初からシナリオに不備があったのだ。でなければこんな最悪な結末はそうそう訪れたものじゃない。
そうだ。色気づいて告白なんかしなけりゃ良かったんだ。
体育館裏に呼び出す勇気だけで、もうとっくに容量オーバーだったのだと思う。
春休み中ずいぶん練りに練った筈の告白の言葉は、いざ自分の口から紡がれるのを聴いてみると救いようがないくらい月並みで味気なかった。それにしたって果たして満足な文章として言えたのかどうか疑わしい。
頭の中身は煮えたぎっていて、普段の一割も冷静に物事を考えられなかったように思う。長く、それでいて短すぎる一瞬の間隙を挟んだ後、彼女は、遠山茉冬は至極申し訳なさそうに言ったのだった。
―――――ごめんね。
その一言で、ようするになにもかも終わりだった。
二年間積み上げてきた想いの数だけ涙はこぼれ、地に塩っ辛い水が飲み込まれていくのを、夜空に負けじと色濃くなりつつある青い月と、老いた桜の巨木が五分咲きの枝を春の甘い風に揺らしながらただじっと見下ろしている。
夜の帳が落ちきるまで、涙は乾かなかった。
下校のチャイムはとっくに鳴り終り、春の大会を間近に控えた運動部の面々も、寄り道の相談を手っ取り早く済ませて校舎を後にしている。
丘の下の田園から流れ聞こえてくる蛙と虫の声。時たま通り過ぎる車の吐き出す排気音。それらはすぐそこの物音で、けれど今ここにいる自分とは絡まり合うことの無い遠い世界の鼓動だった。
女々しいと思う。
いつまでたってもここを離れようとしない自分が卑しい存在に思えてたまらない。
今となっては、つい数時間前のことであった筈の出来事は流れ出た涙に溶かされ、薄れ去り、頭の中に今も反響し続ける「ごめんね」は、ただその言葉自体を悲しいと思うようになってしまっていて、何故こんなにも瞼は重く、喉が干からびたように張り付くのか、そのはじめの理由をともすれば思い出せなくなりそうだ。
忘れようとしたがっているのかもしれない。
心のどこかが掴んだまま離さない「もしかしたら」という甘ったるい希望を、ゆっくり、
ゆっくり、絶望に変わってしまわないように遠い位置に押しやろうとしている。
なにが「もしかしたら」なのか。
それを思考することは許されない。タブーだった。
涙色の後悔が一度始まってしまってから、事あるごとに脳裏に現れようとするその救いようのない考えを、自分なりに自分に納得させるという行為はひどく骨の折れる作業だった。
そんなことはあるわけがないのに。答えはもう出ているのに。それでもどこかで、救われ
たがった心がそんな妄言を紡ぎ始める。
「もしかしたら………もしかしたら、自分は悪い夢を見ているだけなんじゃないか」
「そうなったら恐い、という想いが加速してしまったあまりに、ありもしない悪夢を現実
と捉えてしまっただけなんじゃないのか」
「だから、本当は全てが上手くいっていて」
「このくだらない夢はもうすぐ醒めてしまうんだ」
愚かと蔑む勇気は無い。
これらのひとつひとつは、紛れも無く自分の内から出てきたものだったから。
甘い夜と、泣き疲れ磨り減った心が作り出した幻影。「現実」という名前の、どこかで。
静川代一と遠山茉冬は手を繋いでいる。
そこにも桜の木があって、長く伸びていた体育館の影は夜に飲み込まれ、木々の芽吹きを風が知らせる。月と星は天高く煌き、静かな夜に言葉は要らない。
向かい合う二人の表情から笑みが消え、惚けたように相手の瞳に自分がいるかどうかを確かめ合う。
夜風も虫の声も遠くなり、唯一鼓膜を揺する呼吸も、禁じられたことのように儚い。
静寂は、近づこうとする二人の足取りに壊され、繋がりあった手が重なり合う視線に挟まれる。一番近い場所で触れ合うのはまだ先のことで、二人は「騒ぎ立てるこの心臓の音が止まってしまえばいいのに!」そう願うので頭がいっぱいで――――
馬鹿げている。
この期に及んでまだなにかを望んでいる自分が浅ましくて仕方が無い。
目を覚ませ。結果は出た。それが全てだ。
敗者に必要なのは潔さであり、往生際で足掻くのはご法度。
諦めてしまえばそれで済む話。土台無理な話だったのだと割り切ってしまえば、明日はまたやってくる。
それは以前とは少し違う息苦しい生活ではあるかもしれないが、そこにおめでたい空想に魅せられた大馬鹿はいない。身の程を弁えた敗残兵がひとり俯いているだけ。
周囲の視線に怯えながら、右斜め前の席を、誰にも気取られぬように伺いながら、子鼠のように縮こまって毎日を送る。
それでいいじゃないか。
二年間、いい夢を見ていたのだと思えばいい。
頬をぱぁんと平手で叩いて泣き腫らした目をいっぱいに見開く。夜空を睨む。月が紫の髭を蓄えて「そう、それでいい」と微笑を返した。
よし。
喉も渇いた、腹も空いた。
家に帰ってたらふく飯を食って風呂に入って百まで数えて布団に入ってすぐに眠ろう。
明日も学校に来る。来て、何事も無かったかのように振舞う。それが自分にとっても、彼女にとっても、たぶん最良の選択。
服についた木屑を払い、室を出る。
月明かりの下に、誰かが立ちすくんでいた。
顔面から血の気の引く音が聞こえた気さえした。まさか今自分が考えていたことが、誰かに感づかれたとは思えなかったが。
だがしかし、この場に自分がいることを咎める者がいないわけではない。
小枝を踏んだまま固まっているパンプスが最初に見え、次に膝までのソックスを履いた細い足、チェックのスカートが目に留まる。学校指定の制服を着ているということは生徒だろう。少なくとも宿直の教師や用務員では無かったことに少しだけ安堵する。
襟に巻くスカーフの色が緑なのは三年生。同級生だとすると少しまずい。顔を知られている可能性があるかもと思い、視線を上げ、
目線が、瞬間接着剤で固定されたかのように固まった。
真っ直ぐにこっちを射抜いてくる視線は恐怖の意味さえ知らないといった風で、押し込められた不機嫌さを漂わせて物言いたげに沈黙していた。
不審な物を前にして、戸惑うような軽蔑するような目つき。
知っている顔。見たこともない表情。
一番、ここにいてはいけない筈の人間。一番、ここにいて欲しくない人間。
遠山茉冬は、呆然とさえ呼べる瞳の形を、ふいに鋭く歪めた。
「―――来たわね!」
その言葉は代一に向けられて発せられたものでは無かった。ある筈が無かった。茉冬は猛然と振り返ったと同時にその悪態のような台詞を打ち消すように落ちていた枝を拾って、二、三度振るってみせた後、腰を落として身構えた。
なにをしているのか、茉冬の行動にまったく意味を見出せない代一はのろのろとした動作で立ち上がろうとする。
「動かないで!!」
茉冬の叫び声に反射的に代一の体が硬直したのと、その頭上をなにかぬめっとしたものがものすごい速度で通り過ぎたのもまた同時だった。
なにか、と思う間もなく代一の視界の中では目まぐるしく事態が動いた。
茉冬の肩に、なにか細いチューブのような形のものが噛み付いた。
茉冬はそれを振り払おうとしたらしいが、振るった木の枝はあっけなく折られ、茉冬は短い苦悶の声を上げ地面に倒れこむ。
代一の目で視認出来たのはそれだけだった。
茉冬を襲った筈のなにかはどこへ消えたのか、気配を塵とも感じない。
そんなことはどうでもよくて、
「だ、大丈夫?遠山さんっ」
気付けば苦しげに草むらに倒れ伏す彼女に近寄ってしまっているのだった。
さっきまで出来ることなら一生顔を合わせたくないとまで思っていた相手に手を差し伸べ、ふらつきながらどうにか体を起こす。
「ありがと」
弱弱しく、彼女は言った。
「いや、そんな」
考えたこともないくらい近くにある茉冬の顔は、教室の端から盗み見ていた横顔よりもずっと綺麗で、どこに焦点を当てていいものかどうか迷ってしまう。
「あ、あの、それでさ、今のって」
「伏せて!」
何?
状況を飲み込めないまま、とても女の子とは思えないような力で地面に押し倒される。首に触れる長い髪と頬の感触にああ、もうこのまま死ねるんならいいや、と思っていると、半眼の隙間を黒いものが横切るのが見えた。
さっきのやつ!
「とおや」「だいじょぶ、そこに寝てて」
茉冬は勢いよく跳ね起きると、空中を急旋回してきたその物体に無謀にも素手のまま飛び掛っていく。
無茶だ!
代一はとにかく加勢しようと体を起こして手近に落っこちていた石を握り締めて駆け出そうとした。
ギイィッ
古くなった戸を無理やり開けたような神経に障る音は、茉冬の両手がはっしと掴んだ黒いウナギみたいなものが上げたうめき声だった。
あれだけの速度で宙を飛んでいた奴を、あろうことか茉冬は動体視力と二本の腕だけで捕まえてしまったらしかった。
あっけに取られ、中腰のまま動けずにいる代一の目の前で、茉冬はウナギから針のようにきらりと光るものを抜き取った。
すると、ぽんっ、と小さな風船が弾けるような音がして、茉冬が握り締めていた物体は跡形も無く消え去ってしまった。
いまだ微動だに出来ない代一に、ああそういえばいたんだっけという風な一瞥を寄越した茉冬は困ったような笑みを浮かべると、
「ちょっと、いろいろ話したいことがあるんだけど、いいかな?」
まったく同じ申し出をしようと思っていた代一は、一も二もなく頷いた。
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