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今夜の番組チェック


君を知る春


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 今日は春休み明け四日目の金曜日で、ぽかぽかとした陽気に包まれた教室は昼寝をするのにこの上ない環境だった。
 生徒のほとんどが「なんで春休みってこんなに短いんだろう」というだれきった顔をしており、大っぴらに机に突っ伏すツワモノを、半ば八つ当たりのように教壇の前に立たせて意地の悪い応用問題を解かせるのは数学教師の江尻であり、その赤ら顔もまた、懸命に眠気をこらえているような表情なのだった。
 給食を食ってすぐ、五時間目のしかも数学の授業である。
 眠いに決まっていた。行動の早い連中には昼休みの内に保健室に行って具合の悪そうな演技で人のいい保健医をまんまと騙し、悠々とベッドに横になっているのもいる。
 今教室で船をこいでいるのはそういった連中より多少要領の悪い連中だ。無論、自分だって家に帰っておねんねしたいのに、こんなガキ共のために授業をしてやってるという意識の江尻の目には、自分の目の前でぐーすか鼾を立てているガキ共の態度は挑発であり、挑戦であり、なによりおあつらえむきの公開処刑希望者としてしか映らない。
 そんな勇気と呼べない無謀を試みていたうちの一人、出席番号7番桑島誠二が馬鹿でかい分度器の角で頭を小突かれて夢の世界から引きずり出される。そして不眠不休で王様の墓を造らされる奴隷のような足取りで黒板の前に進み出て、こんなものを理解したところで一体なんの役に立つのだろうかという思いを禁じえないグラフの前で白チョークを持ったまま硬直する。
 江尻の口端が性悪そうに引き上げられる。春の風にはためくカーテンをジャージを履いた尻に挟んで窓枠に腰掛け、腕組をしながら石のようになった桑島を横からにやにやと勝ち誇った笑みで見ている。
 その視線には明らかな優越感と嘲りがたっぷりと含まれており、教室の中で睡魔に打ち勝った数少ない生存者は全員が全員、その下卑た目線に眉を顰めていた。
 ただ一人、その中央に座る静川代一を除いては。
 五時間目で数学でメシを食ったすぐ後でうららかな春の午後だった。
 お世辞にも真面目な生徒とは言えない代一は、これだけの条件下であるなら授業開始の礼と着席から終業の礼まで寝息も立てずに眠り続けるくらいの芸当はやってのける。
 普段なら。
 だがこの日の代一は違った。
 頬杖もつかずに背筋をぴんと伸ばし、桑島誠二という名の石像の黒い背中をじっと見ているのだった。――端から見れば、至極勤勉な授業態度である。
 しかし実際には、代一の目には桑島の背中はおろか黒板に書かれた江尻の形の悪い数字の羅列の端さえ映っていなかった。授業が始まってからこっち、代一はぴくりともせず席に座っているだけだった。
 五時間目だけではない、一時間目から四時間目まで、代一は今日一日ずっとこの調子だった。
 友人から話しかけられても上の空、休み時間は教室から真っ先に出ていき、戻ってきてからもじっと前を向いて座っている。給食の牛乳ジャンケンにも欠席者がいたために執り行われたデザート争奪の阿弥陀くじにも参加表明しなかった。
 クラス中が信じられないものを見る目つきで代一の正気を疑った。
 そんな視線などどこ吹く風で、代一は黙々と配膳された給食を食べ、一切無駄口を叩かず、メインのおかずである鶏のから揚げを勝ち取った男子生徒への無自覚な食事妨害となった事務的な食事を終えると、てきぱきとでもなくのろのろとでもなく、ひたすら無感情に食器を片付けると前の戸から教室を出て、どこかへ行ってしまった。
 それを見た代一と仲のいい連中が即座に互いの机を近づけ、顔を見合わせてひそひそ話を始める。
「なに、あいつ今日多い日?」
「いや、あれってもう三ヶ月くらいなんじゃねえの?」
「うちのばあちゃんが梅干と麦茶を一緒に飲むのがいいって言ってた。………あ、代一ってすっぱいの嫌いだっけか」
 勝手な冗談を飛ばし合うが、根っこのところでは代一のことを友人なりに案じているのである。
「ていうかマジでさ、あれどうしちゃったのよ」
「ダイエット?」
「いらねーだろ。あれ以上痩せたら骨だぜあいつ」
「受験のストレス、にはまだ早いよな? ………勇蔵、あいつん家の親って勉強うるさかったりするっけ?」
 突然話題を振られ、設楽勇蔵は数秒かけてそれを飲み下し、ふぅっと息をつくとひとつ長めの瞬きをする。
「んにゃ、普通だろ。いい母ちゃんだぜ。父ちゃんはちょっと変わってっけど面白いし」
「だよなぁ、大体あいつそんなに偏差値きついとこ行くわけじゃねえもんなぁ」
「んだけどさ、代一って普段なに考えてんのかよくわかんねえとこあるじゃん? なんか、悩み溜め込んでんのかもよ」
 一人がそう言い、聞いていた者は皆なんとなくわかるような気がするという顔をし、
「とにかく、あんまり周りで騒がない方がいいべ。あいつだっていろいろ考えることあるだろうしさ。………機会あったら、俺からそれとなく聞いてみるよ」
 という勇蔵の一言でその場は解散になったのだが、彼らが校庭でサッカーをして泥だらけになって教室に戻ってきた時も、代一は自分の席でネジを巻き忘れた人形みたいにじっと前を向いて座っているのだった。
 クラスメイトの証言によれば、メシを食い終わって教室を出て行った後、十分くらいして戻ってきた代一はやけに張り切っていたらしい。堂々と胸を張って席に着き、ちいさな声でなにかをぶつくさ言っているのを左隣の女子が聞いている。なにを言っていたのかはよくわからないが、ひどく恐かったのだとを怯えた様子で訴えてきた。
 勇蔵を含めた男子数名は、これはただ事ではないと判断した。
 自分たちの考えているよりも代一はどうやら深刻な事態に陥ってしまっているらしい。
 普段から多少、奇行が目立つところはあるものの、基本的には人畜無害。のんびり屋で気のいいやつである代一が友人の誰にも相談できないような悩みを抱えている。
 クラスの大半はそう判断した。
 下手に刺激をしないようにしようという勇蔵の発案に皆固く頷き、席に着いた。
 そして現在、耳をそばだてる男子数名と、とりあえずノートだけは取っておこうという女子数名のシャーペンをノートに走らせる音と、その他大勢の微かな寝息に囲まれながら、もう五分近くも静止している桑島の背中の辺りに焦点の定まらない視線を向ける代一の口元は、わずかに動いているのだった。
 江尻はニヤニヤ笑いで桑島に無言の重圧を与え続けることに夢中で、席の様子など気にも留めない。が、流石にここで身を乗り出して代一の独り言に耳を欹てれば、自分が第二の桑島になることは疑いなかった。
 勇蔵含む男子数人は、すっかり冴えてしまった目で江尻に気取られぬよう代一の方を見ようとする。可能な限り体を傾けて、江尻の注視を桑島から逸らさぬように慎重に、慎重に、代一の呟きを拾おうと懸命に努力した。
「――――――さい」
 その断片が勇蔵の鼓膜に触れたとき、

 きーんこーんかーんこーん

 間の抜けたチャイムの音が鳴り響き、江尻はつまらなそうに舌打ちをし、石化の解けた桑島の肩に手をおいて「来週までにここのページを全部予習してこい」と死刑宣告をした後、席に戻れずに呆然と立ち尽くす桑島を尻目に級長に礼をさせてさっさと教室から出て行った。
 それを追いかけるようにして、静かに立ち上がった代一も教室を後にする。
 勇蔵の下に先ほどの男子が集合する。
「なあ、代一なんか言ってたよな。あれなんて言ってたのか聞こえたやついる?」
「俺だめだった」
「俺もー」
「俺は、ちょっとだけ聞こえた、かも」
 控えめに手を挙げる勇蔵に周囲の男子がわっと詰め寄る。
「なんて? なんて?」「うわ、なんだお前ら、さっきまで寝てたじゃ」「ばっかやろ、代一の様子がおかしいことくらい気付いてたっつの」「そんなことよりなんて言ったんだよあいつ、教えろよ」「あいつ放っとくとたまにすげー面白いことしだすもんな。今度はなんだ? またあれか? 教師の生態調査第二弾か?」
 口々に騒ぎ立てるクラスの男子を勇蔵は手を振り回して制し、
「わぁーった、解ったから黙れお前ら!」
 瞬間、波を打ったように静まりかえった男子に勇蔵はちょっとたじろぎ、自分を見つめてくる十数個の瞳を順々に睨みつけ、もったいつけるように、言った。
「聞こえたのはほんとにちょっとだけなんだけど、」
 そんな前置きはいらないからとっとと言え。視線が急かす。

「あいつな………………好きです、付き合ってください、って言ってた」

 クラス中が勇蔵の言葉にリアクションを取りかねている頃、この日五度目となる屋上に代一は足を運んでいた。
 春休みに入る前から決めていた。
 ずっと前から、足りなかったのは勇気だけで、春休み中は毎日ずっとそのことだけを考えてきた。
 代一には好きな女の子がいる。
 名前を遠山茉冬といい、同じクラスの学級委員長で、女子にしては背の高い160センチ後半で、肩口で切りそろえられた真っ直ぐな髪はカチューシャで留められ、形のいい額がいつもあらわになっている。女友達に「でっこ」とあだ名で呼ばれると「やめてよもー」と目を細めてはにかむ。
 問題児の多い3年C組の中では真面目な方で、けれどどのグループとも分け隔てなく話が出来る。異性からも同性からも好かれていて、なんでも出来そうで、実際なんでも出来て、でもそれを鼻にかけるようなことはしない。謙遜しても嫌味がましくならない。頼りがいがある、と周囲に思わせると同時に、助けてあげなきゃ、とも感じさせる柔和な雰囲気を持っている。
 彼女と初めて話をしたのは二年前、入学したばかりの頃。
 なんでもない会話だった。たまたま同じクラスで、たまたま席が隣同士で、たまたま彼女が消しゴムを落っことして、それを拾ったのがたまたま代一だったというだけの話。
 ―――ありがと。
 たったそれだけ。
 なにか、代一の頭の中で今まで使ったことのない部分、あるいは、その瞬間に新しく代一の中で芽生えた部分が瞬時に熱くなった。その熱は感情に触れ、瞬く間に思考を乗っ取った。味わったことの無い感覚。心地のよい苦しさ。
 自分の全てを委ねてしまってもいいような、力強さを持っていて、けれど一刻も早くそこから抜け出したかった。
 確信があった。
 この先には、もっと気持ちのいいものが待っているのだと。
 その熱と出会ったのは初めてだったのに、なぜそんなことを知っていたのかは理解できない。それでも、鼓動は逸った。脳内で再生され続ける「ありがと」は代一の意識を蕩けさせた。甘く、せつない香りを孕んで、代一に一度も行ったことのないどこか遠い場所の幻を見せた。
 そここそが辿り着くべき場所に違いなかった。
 この熱の意味を知ることが出来たなら、言い表しがたい感情を名づけることが出来たなら、
 心に飼ってきた想いを解放すことが出来たなら。
 きっとそれらを成し遂げた者だけが辿り着ける場所なのだ。
 年月は渇きにも似た想いに拍車をかけ、もはや幻だけでは飽き足らない。
 今なら、言える。
 これは恋なのだ。
 そしてそれはまだ一方的なものでしかない。代一から茉冬への想いはここにあっても、茉冬が代一をどう思っているかは皆目見当もつかない。
 だから、勇気とは即ち、その真相を確かめるために必要だった最後のピースだ。
 今、自分にはそれがあるのか。
 無かったら困るのだ。今日、これから訪れる一瞬一瞬に立ち向かうために。不安や怖気を容赦なく切り捨てて勝負の放課後を迎えるために。
 勇気が、要る。
 西の空に傾きだした太陽。吸い寄せられそうなほど近く感じる白い雲。深呼吸。自分しかいないここで、最終確認。
「好きです、付き合って――――――――――――――


「代一?」
 鼻のすぐ前で不可解そうに眉が寄っていた。
 目線だけを動かし、頭半分下で代一を見上げる色白い顔を見る。
 なにやってるの? ―――そう言いたげな視線には恥じらいも臆するところもまるで無い。
「ねえ代一、あなたこんなところでなにしてたの?外回りに行くって言ってたじゃない。さっきのクロヒモを追って来たの?」
 夜風が、白熱しかけていた脳みそを冷やしてくれた。冷えた脳みそは彼女の言った言葉をひとつひとつ解析し始めている。
 ここにいる理由。それは彼女だってよく解っているはずだ。何故そんなことを聞いてくるのか。………それとも、「いつまでこんなところでウジウジしているつもりなのか」という意味合いの発言なのだろうか。
だとすれば、余計にそんなことを答えられるわけがない。最低に格好悪い。
それで、外回りというのは一体なんのことか。
連想するのは炎天下。サラリーマンが毎日のようにすること。途中でサボってゲーセンやバッティングセンターに立ち寄って憂さ晴らしをするドラマのワンシーン。代一にそういった類の台詞を口にした覚えはまったくない。茉冬との会話自体数分程度の短いものだったのだ。それからずっと、ここから動いていない。
そもそもおかしいのは、あれだけのことがあってたった数時間後だというのに、茉冬の態度に全く引け目が感じられないところだ。あまつさえ、代一のことを下の名前で呼び、無防備とも呼べる警戒心の無さで妙に親しげに顔を近付けてくる。
まるで旧知の幼馴染の振る舞いだ。
本来あってはならない筈の茉冬の態度に戸惑いを隠せない、が、それ以上にさっきからどこかに引っかかっている棘のような違和感があった。
茉冬の発した「クロヒモ」という単語。
クロヒモ。
聞いたことの無い言葉の筈である。だが、それは代一に不思議な既聴感を与え、背筋を冷えた液体が通り抜けるような感覚を覚えさせる。
クロヒモ………………………………………黒、紐?
「班長―――!!」
 草を踏み鳴らす足音と近づいてくる叫び声に思考は中断させられた。
 聞きなれた声。今の不穏な単語とは違い、それは確信と言ってよかった。
「なんかあったのか? こんなとこに一人で………ってあれ、代一じゃねえか。なにしてんだお前」
 声の主設楽勇蔵は、幼稚園からの腐れ縁である友人の顔を見留めて眉間に八の字を作った。
 状況は好転しているのか、それとももはや取り返しのつかないところまで来ているのか、代一には解らない。当然勇蔵の「なにしてんだ」に返す回答の持ち合わせは無い。
 ぎこちなく作り笑いをした。「やあ、勇蔵。奇遇だねこんなところで」自分で言っていて鳥肌の立ちそうな台詞に、内心すべてが終わる瞬間を覚悟した。家に引きこもったらなにをして過ごすのかを今のうちに真剣に考えておいた方がいいだろうか。
「お前さっきその辺回ってくるって言ったじゃんよ。………サボりなら感心しねえぜ、こいつばっかりは手を抜いちゃなんないんだからな」
 勇蔵の目つきが言葉と共に鋭くなっていく。
 いまひとつ会話の主題が掴めていない気がするが、15年間付き合ってきた経験上、勇蔵がそういう顔をした時は下手に刺激しない方がいいのだ。大らかで気風のいい兄貴肌な奴だが、怒らせると本当に恐い。
「別に、大した理由はないけど………」
「なんだ、ションベンか?」
「………………まあ、そんなとこ」
 茉冬の前で屈辱的な肯定をすることに躊躇はしたが、そこまで真実とかけ離れた認識をしてくれるならばここであった出来事が明るみに出ることはあるまい。
 あり得ないとは思うが、茉冬が他言さえしなければ。
「ったく、しょーがねえな………そういうのは見回りの前に行っとけっつの。用足ししてる間にヘビ共に襲われたらどうすんだ。モノ丸出しで滋養所送りなんてたまったもんじゃねえだろ」
 なんで襲われる相手がヘビ限定なのか、とか、滋養所、という聞きなれない単語に食いつきたい気持ちはあったがそれよりもまず、
「勇蔵、あのさ、遠山さんもいるんだからそういう話は」
 ぱん。
拍手を打つ音で代一の小声の訴えは中断させられた。手のひらを合わせて、思い出した、という顔をしている茉冬は慌てた様子で勇蔵に詰め寄り、「そう、聞いて欲しいことがあるの」と切り出した。勇蔵がきょとんとして尋ねる。
「聞いて欲しいことって?」
「あのね設楽君。さっき静川君、クロヒモに襲われたのよ」
 それを聞いた勇蔵の顔つきが瞬時に強張る。
「マジでか!? そんで? だいじょうぶだったのかよ、代一」
 いきなり肩を掴まれた代一は、何故それほどまでに勇蔵が取り乱しているのかがわからない。
「えっと、なにが?」
「なにがじゃねえだろ! 体だるくねえか? ヘビに触っちまったとことかないのか?」
 なんだろう、自分はそこまで調子が悪そうに見えているのか。
 確かに、飲まず食わずで何時間も泣いていたからいまひとつ力が入らないし、瞼はずしりと重たい。だるいと言えばかなりだるい。気を抜けばすぐにでも眠ってしまえそうな気がする。
「平気よ、設楽君。クロヒモは私が始末したし、静川君の体には触れていないわ。………でも念のために救護室に連れて行ってくれる? 今なら美濃先生いると思うから」
「わかった。………けど、遠山は?お前はどっか触っちまったとか、ないよな?」
「うん、私は平気」
「………………わかった。ほら、代一行こうぜ。歩けるか?」
 二人の会話に置き去りにされたまま、代一は反射的に頷き、勇蔵の後に歩く。
 勇蔵に気取られないように振り向くと、桜の木の前に立ち尽くす茉冬と目が合った。
 困ったような笑みの浮かんだ口元が「私は平気だよ」そんな風に言っていたように感じた。
声は、聞こえなかったけど。

   

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